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2007年5月19日土曜日

あの人だって人間なんだ?

前回の記事で琉球新報について
「こいつら時代が時代なら先頭に立って軍国主義を賛美してたんジャマイカ」
との印象を抱いてしまいますね。
なんて言ってたら・・・今日の朝刊の27面にこんなのがありました。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-23882-storytopic-1.html

あとでリンク切れると困るので抜粋
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沖縄学の父が戦意高揚の寄稿文
 沖縄学の双璧(そうへき)とされる伊波普猷(1876-1947年)と、東恩納寛惇(1882-1963年)が、相次いで戦意高揚を図る文書を東京新聞に寄稿していたことが、18日までに分かった。伊波は沖縄戦が始まった1945年4月3、4の両日、日本人として「真価を発揮する機会が到来した」「勇戦大きな期待を抱く」などと記述している。東恩納は組織的戦闘が終結した直後の6月27日付で「本土防衛に鉄壁布陣の時間を稼いだ」と守備軍の功績をたたえている。米軍の本土上陸に向け戦意高揚に一役買っている。
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で、この資料が埋もれていた理由について、
「民主主義者または時局批判者の伊波がこうしたものを書くはずがない、という思い込みや予断が研究者を含む多くの人たちの中に頑にあったためではないか」
と言われているそうです。

…判っていたさ、判っていたよ。物書きがこういう人種だって事は。
まあ、「沖縄に理解を示す人物だからといって必ずしも平和反戦ではない」という当たり前といえばごく当たり前の話で、また、沖縄学の父といえども、昨今主流となっている「オリジナリティーで勝負しろ」という意見を持っていたのではなく「沖縄人は日本人の一部」というのがその主張だったというわけでなかなかに興味深い資料ではあります。

ちなみに沖縄戦とその後の歴史について概略を述べますと、戦前、日本軍は沖縄を前線基地とは見なしておらず、国境は台湾海峡の辺りにありました。
事実、台湾大学の前身は旧帝大であります。
で、戦略上の失敗なんかもあって沖縄にはろくな地上兵力が集まらず、対馬丸の例にも見られる通り米軍の通商破壊で住民も避難できないうちに米軍が上陸してきて凄惨な戦いが繰り広げられます。
特に激戦が繰り広げられたのは宜野湾市、浦添市、西原町の付近で、いくつかの部隊はここで全滅したので、小官が小学生の頃まで嘉数高台公園には慰霊碑がたくさんありました。
ただし、戦後かなりの時間が経つと、遺族の中にもきちんとした情報を知っている人がいなくなって、糸満の平和記念公園へ行ったのに慰霊碑がないと苦情が来るようになったので、あらかたそっちへ移設されてしまい、現在嘉数高台に残っているのは「京都の塔」のみだという話です。
http://www.odnsym.com/spot/kakazu.html
http://www.odnsym.com/pic/m/kyoutotou.html
その後、沖縄がアメリカに占領されると、植民地として、前線基地として、生き残った沖縄の住民は苦しい生活を強いられることになりました。
事実、「アメリカは自由の国ではないのか」と問うた琉球政府の代表に対して、「いかにも、わが合衆国は自由の国である。しかしそれは琉球人には適用されない」と軍の高官が語ったというエピソードも残っています。
(今にして思えばかなり誇張が入っているような気もするが)
当然、そういった中で本土復帰への思いは強くなっていくのでした。
ところが、本土へ復帰して日本人になっても沖縄から米軍は出て行かなかった。
国から来るお金は一部の人にしか回らず、依然として経済格差は存在し続け、基地負担は減るどころか自衛隊まで来た。

こうして日本に対する失望が広まる中で昨今の
「オリジナリティーで勝負しろ」という主張が出てきたのです。
そしてそれはある程度成功を収めました。
が、結局のところ、沖縄の人々が理想と妥協の間で生きてゆかざるを得ない現状は変化しておらず、特に一部の人たちは極端な思想・行動に走ってしまう…

まあだいたいこんなところです。

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